真宗佛光寺派長性院の開山は、約700年前。
佛光寺中興の祖 了源上人の長息 空信が京都今熊野の地で開山。
以降、京の町や佛光寺と共に、その歴史を重ねてきました。
西ノ坊・長性院の開山「空信(性法)」は、佛光寺第七代了源上人(中興上人・佛光寺教団の祖)の子息にあたる。正和2年(1313)、山城国愛宕郡竹中庄、現在の新日吉(いまひえい)神宮の地(東山区妙法院前側町)に、「法興寺」を建立し、「西ノ坊」(後の長性院)と称した。
草創期の佛光寺教団は、山科で「興隆正法寺」と称し活動していたが、嘉暦2年(1327)、後醍醐天皇から「阿弥陀佛光寺」の寺号を下賜され、3年後の元徳2年(1330)、東山汁谷、現在の豊国神社(東山区大和大路正面茶屋町)の地に移転し、「佛光寺」と改称した。
当時の佛光寺は、親鸞聖人の教えを広めるために、了源上人の御巡化と『交名帳』『絵系図』によって、多くの信者を獲得し、真宗における最大の勢力に至った。しかし、文明14年(1482)佛光寺宗主・経豪は、当時の四十八坊中の四十二坊と数千の末寺・門徒を引き連れ、本願寺・蓮如に転じた。この時、西ノ坊第六世「信乗」は他の五坊と共に佛光寺に留まり、佛光寺第十四代経誉上人と共に、佛光寺の法灯を守った。
天正14年(1586)、豊臣秀吉は、佛光寺の東山・汁谷の地に、「大仏」を建立するべく、移転を懇請。佛光寺はこれに従い、汁谷の地から、現在地(秀吉の「龍臥城」跡地)に寺基を移転した。これに伴い、西ノ坊第十一世大僧都「信秀」は、寺基を現在地に移し、その後、寛永10年(1633)に寺号を「長性院」と改め、現在に至っている。
その後、天明8年(1788)、京の都を灰燼と化した天明の大火により、本山両堂と共に長性院も焼失するが、寛政元年(1789)に再建を果している。また、元冶元年7月(1864)、鳥羽伏見の戦いの兵火を罹り、本山共々長性院も再び全焼したが、明治11年(1878)、再建を遂げた。しかしながら、同年5月、第二十一世「信亮」が、西欧化による仏教衰退等時勢の激変により還俗し、大善院住職佐々木良祐師が、長性院第二十二世住職を兼務した。
その後、明治39年3月(1906)自坊から失火、本堂、庫裏を失ったが、明治41年(1908)焼失を免れた座敷を、本堂兼庫裏に改築した。昭和9年6月、良祐の子息佐々木乾祐(乾三)が長性院第二十三世を継職し、昭和41年(1966)、老朽化が激しく且つ手狭な、本堂兼庫裏を新築し、その後第二十四世佐々木亮一も改修を重ねて、今日に至っている。
なお、度重なる火災のため、後世に伝えるべき資料・宝物を焼失したことは誠に遺憾であるが、唯一、嘉暦元年(1326)に描かれた長性院所蔵の『一流相承絵系図』は、昭和60年(1958)、国の重要文化財の指定を受けた。絵系図には、俗人姿や女性、更には子供までもが描かれており、草創期における真宗教団の活動を伝える重要な資料となっている。
令和6年12月