「一病息災」と”安易な”健康

昨晩、家族と夕食中、健康診断の話題から、「一病息災」の話となりました。四文字熟語「無病息災」は、ご存知とのとおり、「健康で元気なさまのこと」。神社やお寺でいただくお札やお守りの定番ですね。一方、「一病息災」とは、「ちょっとした持病があると、常に健康を気遣うので、かえって長生きできる」といった意味だそう。

医学が進歩して薬効の高い薬が普及し、比較的簡単に治る病気が増えました。風邪をひいたら風邪薬を飲み、頭痛がしたら頭痛薬を飲み、痛みや症状を消し去る。薬で簡単に苦痛から解放されるのは、率直に嬉しいことです。しかし、便利な薬に頼り、”安易な” 健康と引き換えに、自らの体や病気をぞんざいに扱っていないか、と感じることもあります。

私たちの「体」は「道具」ではありません。「頭(理性)」が主で、「体(感覚)」が従という訳でもありません。「頭」も「体」も全てひっくるめて「かけがえのないひとつの私」のはずのに、「体」からの悲鳴を都合悪いものとして無視しようとしていないか。「体」をあたかも道具のように、知識や科学でねじ伏せようとしていないか。

そんな迷いもあって、昔から私はあまり薬を飲みません。医学的には何の効果もない、というかむしろ逆効果なのでしょうが、熱も頭痛も、「体」からのメッセージとして、できる限り感じとりたいと思ってきました。家族には、いつも迷惑と心配をかけ申し訳ないのですが。。

一病(持病)は、そんな「体」からのメッセージを日々届けてくれます。大切なことは、病気と上手につきあっていくこと。「頭(理性)」と「体(感覚)」のバランスをとること。病気は辛いものですが、紛れもなく私の一部。逃げることも、消し去ることもできないのなら、例え、憎き病気であっても、つきあっていくしかありません。

そして、何より、病気は、日々の暮らしの大切さ、人のぬくもり、かけがえのない時間・・・。多くのことを気づかせてくれます。

ちなみに、「息災」の語源は仏教・サンスクリット語。神仏の力で、衆生の災いをとどめることの意で、罪や煩悩を除き、苦や災難を消し、安定を得させることだそう。私たちも、病気から目をそらすような”安易な”健康ではなく、病気になったことをご縁と受け止め、心身ともに充実した生き方することこそが健康、と心がけたいものです。