福は内、鬼も内

昨日、偶然、京都・吉田神社の前を通りかかったら、いました「赤鬼」「緑鬼」「黄鬼」。節分会の参拝客をかき分けて、子どもを見つけては泣かしまくり。

とはいえ、最近、すっかり「鬼」を見かけなくなりました。子どもの頃、駄々をこねていると「鬼がさらいに来る」と脅されたし、大人になってからは、鬼嫁や鬼社長にずいぶん怒られた。そんな方も多いことでしょう。鬼が島まで行かなくても、身近に、めっぽう怖い「鬼」がたくさんいました。

皆さんご存じの通り、もともと「鬼」は、疫病や災害などの自然の脅威を意味していましたが、科学技術が進んで、その多くが克服できるようになりました。少なくとも、「鬼」の仕業だと信じている人はもはやいないでしょう。

「鬼」は、もうほとんど絶滅寸前。あなたを怖がらせる存在なんて、もはやありません。

なのに、相変わらず、節分になると、人々は「鬼は外、福は内」と声をあげて、豆をまきます。正直な気持ちは「福は内、福は内」。「鬼」は絶滅寸前ですから、「福」の飽くなき追求。まさに煩悩の塊です。

でも、よくよく考えてみると、「福」と「鬼」の区別はなかなか難しい。
鬼畜のような煩悩にまみれた人だけど、自分に利益をもたらしてくれるから「福」。
あなたのことを心から心配してくれる奥さんでも、痛い所をつかれて鬱陶しいから「鬼(嫁)」。

結局、「福」と「鬼」の違いは、自分にとって都合がよいかどうか。あさましい自分の狭い視野での身勝手な判断でしかないのです。人も自然もあるがままあるだけで、それを「福」と捉えるか、「鬼」と捉えるかは自分次第。本当の「鬼」とは、煩悩にまみれた自分の心そのものなのです。

奈良県の峯山寺蔵王堂の掛け声は、「福は内、鬼も内」。全国から追われた鬼を迎い入れ、仏教の力で改心させるのだそう。

私達は誰しも弱く煩悩にまみれた存在です。年に一度の節分。心に住まう「鬼」を遠ざけるのではなく、きちんと向き合う、そんな機会にしたいものです。

次回は、そんな「鬼」にまつわる日本語を集めて「[動画]にほんご茶論」をお届けします。お楽しみに。