「いのちの真実」に気づく

今年の秋は例年にも増して慌ただしい週末が続きました。9月は先代住職の23回忌と先代坊守の17回忌法要、10月は当院の報恩講や「光と海」展。また、親戚の突然の訃報とお葬式もありました。今月には、本山佛光寺の御正忌報恩講も控えています。

さて、お葬式や年忌法要などでお勤めする和讃(日本語のお経)に、下記のようなものがあります。

安楽浄土にいたる人、五濁悪世にかへりては、
釈迦牟尼佛のごとくにて、利益衆生はきわもなし

<意>
お亡くなりになった方々は、皆さんが故人に手を合わせ想いだすことによって、この煩悩にまみれた現生に戻って来られます。
そのお釈迦様のようなお姿を通じて、私達は、今生きている有難さに改めて気づくことができるのです。

真宗では、死んだら直ぐに極楽浄土に往生すると説かれており、お葬式や年忌法要などの法事は、亡くなった方の供養のためではなく、この世に生きている私自身が、私達の生き方を見つめ直すために行うものとされています。

お墓詣りもまた然り。真宗の開祖・親鸞聖人のお言葉を集めた書「改邪鈔」では、

某 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし

<意>
私(親鸞)が死んだら、賀茂川へ捨てて、魚に与えよ。

とお説きになり、亡き人にすがることを戒めておられます。

だからといって、法事やお墓参りが無意味という訳でありません。

誰しもいつか死を迎えるという「いのち真実」から逃れられないにもかかわらず、仕事や家事に日々忙しなく追い回され、じっくりと考える時間はなかなか持てないものです。
だからこそ、法事やお墓参りを機会として、「いのちの真実」に向き合う時間はとても貴重なものに思われます。

何のために生きているか。
誰のために生きているか。

結論のでるような話ではありませんが、私も少しばかりゆっくりと考える時間を頂きました。