“三日坊主”から始めよう

長性院のWEBサイトをリニューアルしたのが昨夏。昔から書き物が苦手な私は、ブログを開設するかどうか、かなり悩みましたが、なんとか「三日坊主」にならず1年間、書き続けることができました。
さて、この「三日坊主」。広辞苑によると「飽きやすく何をしても長続きしないこと。また、そういう人をあざけっていう語」という意味だそうですが、何故「坊主」なんでしょうか。

諸説あるようですが、面白いのはこんな説。「昔は、商売に失敗したり生活に困窮すると、寺に駆け込むことも多く、お寺では衣食住が満たされることから、そのまま出家を目指す人もいたそう。しかし、僧侶の修行は思っていた以上に厳しくて、3日で逃げ出すことが多かった」からなのだとか。修行が厳しいかどうかは別として、私も何度もお寺を出ようとした身ですから、まさに正真正銘の「三日坊主」です。

さて、世知辛い世の中では、計画性や忍耐力のない「三日坊主」はダメ人間の代名詞みたいに非難されて、「三日坊主」克服のための心構えやスキルが書かれた啓発本もたくさん売られています。もちろん、「三日坊主」にならず目標が達成できれば素晴らしいのですが、最近「三日坊主」でもいいんじゃないかとも思うようになってきました。(ものごとの種類にもよりますが・・)

例え「三日坊主」でも、寝食を忘れて打ち込めば何か気づきがあるかもしれないし、なければ次を待てばよい。また、継続のための心構えや努力・忍耐は重要ですが、続けることに執着してしまっては、目標を見失ってしまいかねません。「三日坊主」を恐れるばかり、目の前にチャンスがあるのに、できない理由をつけて踏み出さないのはもったいないし、ある意味、思いあがりだという気もします。

「三日坊主」で終わるか、当初の目標を果たせるかは、誰にもわかりっこありません。巡ってきたご縁を謙虚に受け入れて、まずは精一杯「三日坊主」をやってみる。「三日」が終われば、また次の「三日坊主」を目指せばいい。頭でっかちな時代だからこそ、かえって、そんなぐらい心に素直に、自然体でもいいのではないでしょうか。

さて、このブログ。1年間続けてきたおかげで、数多くの学びと気づきがありました。日常のなかで感性を研ぎ澄ませること。小さな気づきを積み重ねること。私自身の修行としても、肩ひじ張らず、根を詰めず、でも毎回、最終回ぐらいのつもりで、これからもこのブログを書き続けていきたいと思います。拙い文章で申し訳ございませんが、引き続きよろしくお願いいたします。

(副住職)