信じすぎないこと ~イスラム教から仏教まで~

連日ニュースでは、フランス・パリで起こったテロが取り上げられています。容疑者が過激派組織「イスラム国」に所属していたこともあって、特にテロの後、イスラム教徒への警戒感が強まり、モスクなどが襲われているとも聞きます。

私は学生時代、インドネシアの中核都市ジョグジャカルタ近くのイスラム神学校に泊まったことがありますが、彼らは勉強熱心で純粋で敬虔で、生活様式は全く異なるのに不思議と親近感を感じるほどでした。また、姉妹宗教ともいわれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教のなかで、イスラム教が一番、他教に対して寛容だという学者もいます。

一方、仏教。争いを嫌う平和な正しい宗教だと思われているかもしれませんが、古今東西を見渡せば、そうとはとても言い難い現実がたくさん見つかります。

例えば、アウンサンスーチー氏率いる野党・国民民主連盟が8割もの議席を獲得したミャンマー。ミャンマーは約8割が仏教徒が占める仏教国ですが、北部のイスラム系少数民族「ロヒンギャ族」に対する弾圧は世界で最悪の人権侵害として悪名高く、いまも仏教徒による虐殺や国外追放が続いています。

日本とて例外ではありません。わずか70数年前、第二次世界大戦中、中国大陸への布教を目指していた仏教教団は、大政翼賛会のもと、戦争に協力する「報国会」を立ち上げて、教義をねじまげ、釣り鐘を供出するのみならず、兵器を寄付したりしました。

「では、もう仏教も信じられない・・・」「何を信じればいいの・・・」

これは私のスタンスでもあるのですが、どんな宗教を信じるとしても、盲目的には信じないことです。自分が直観的に理解できる表面的な部分だけをとりあげて、都合よくわかったふり、信じているふりをしないことです。イスラム教だろうが、仏教だろうが宗教に頼りきらず、まずは現実を客観視することが出発点なのだと、私は思います。

どの宗教も人間ひとりひとりを救うために生まれました。決して民族のためでも、ましてや国家のためでもありません。しかし、たびたび、宗教は、組織や国家によって、その教義が都合よく解釈され、さまざまな行動や選択の口実として利用されてきました。その現実を自ら見極める冷静さも必要です。

仏教には「戒禁取見」という戒めがあります。自分の思想や信条、宗教などに執着しこだわることは根本的な煩悩であると。あなたが信じている仏教すら、疑ってかかって構わない、と。

仏教が教えてくれるのは、あなたが幸せになるための具体策ではなく、あなたを取り囲む現実と因果を正確に捉え意味のある未来へとつなげるための視座や方法論。それをもとに、どう考えどう行動するかは、あなた次第なのです。例えば、自分の幸福のために他人を傷つけることが本当に自分の幸福につながるのか。それを考えるのは、ほかならぬあなたであることを忘れてはいけません。

そして、最後に付け加えるならば、そんなふうに考えて考えて考え抜いたあげくに、仏様の深い慈悲に気づくことができると言われています。

戦争もあなたの人生も、宗教を言い訳にしてはいけないのです。