「老」や「死」が封印されている街

今週末は仕事で東京出張。「どんな素晴らしい物を作ったとしても、知ってもらわないことには、買ってもらえない。流通も情報も経済も、東京を介さないことには、広がらない」ということで、京都の地場産品を首都圏に売り込むプロジェクトを東京で開催しました。

日本人口1憶2千万人のうち、東京都は1300千万人。東京都のGDPは、日本のGDPのうち、実に20%弱。東京には、各地から多くの人や物や情報が集まり、人生を楽しむあらゆる機能が揃っています。その一方で、東京の街を歩いてみても、なかなか「お年寄りの姿が見えない」「お墓やお寺がない」。目の前の「生」に執着するばかりに、「老い」や「死」に関係するものは何一つ見たくないと、街の隅や奥に仕舞い隠しているように感じます。

ただ皮肉なことに、目先の享楽を貪り、いくら楽しい時間を過ごしても「生」の実感はなかなか得られないものです。多くの方達が、スキューバダイビングをしてはじめて自分が息をしていることに気づくように、大病を患ってはじめて健康の大切さに気づくように、普段あたりまえに享受している「生」は、「老」や「死」との比較なしに実感することが難しいのです。

先日読んだ本によると、全国に仏教系寺院は約7万7千ケ寺、僧侶は37万7千人(文化庁)。そのうち、住職のいないお寺は約2万ケ寺で、そう遠くない将来、3割から4割のお寺は消滅するだろうという衝撃的なもの。お寺やお墓とは、故人の「死」と向き合うことで、自らの「生」について考える場所。時代にそぐわない旧態依然としたお寺が廃れていくのはやむを得ないのかもしれませんが、ますます個人主義や合理主義を強めていく現代社会の行く末に不安を覚えます。

ところで、安倍政権では、「地方創生」をスローガンに掲げています。しかし、いくら税金をばらまいても、岩盤規制を緩和しても、そこで誕生するのは「ミニ東京」ばかり。ひとりひとりが、自らのルーツを求めるなかで、血縁・地縁に気づく、その先に本当の「地方創生」があると信じ、私達なりの歩みを進めたいと思います。

だって、お寺は建立当初から、その街と人と、一心同体・運命共同体なのですから。