COP21を通じて、「内」と「外」との境界を考える

11月30日から12月11日まで、フランス・パリで、COP21(気候変動枠組条約第21回締約国会議)が開催されています。18年前、京都で開催され、京都議定書が結ばれたCOP3を覚えておられる方も多いのではないでしょうか。当時、大学院で環境工学を学んでいた私は、有史以来初めて人類が文明の発展・拡大にセーブをかけるという、そんな人類の叡智の結集を勝手に夢見て、胸躍らせていました。

しかし、それから、早18年。未だ実効性のある地球温暖化対策は作り出せず、むしろ国際政治の駆け引きの材料となってしまっているのは、とても嘆かわしいことです。

さて、世界に目を向けると、加速度的な発展が続くアジアやアフリカなど開発途上国では、大量に発生するゴミの処理が追いつかず、自然破壊や健康被害の原因となっています。中国・北京では、PM2.5の悪化に歯止めがきかず、東アジア諸国まで巻き込んで深刻な社会問題となっています。国内では、技術進歩によって公害はなくなりましたが、もっと取扱いがやっかいな使用済み核燃料の処理については解決の糸口が見えていません。

これらの環境問題に対し、市場原理を活用して「外部不経済を内部化」することで解決を図るものとして、課税や補助金、排出権取引などの経済的手法が期待されています。なお、ここで「外部不経済」とは、市場取引において、当事者(内部)が当事者以外(外部)への悪影響に配慮しないため、当事者以外(外部)が損失を被ることを言います。

狩猟時代、小集団で暮らしていた人類は、穴を掘ってゴミ(不要物)を埋め移動、ゴミはいずれ自然に戻りました。農耕を始め村や街に定住するようになっても、ゴミを燃やして人里離れた山や川に捨てれば、それで済みました。先進国を中心に、大勢の人が大都市に住むようになっても、少々手間はかかるが、高度な技術力でゴミを減量したり改質させて、広く大きな大気や海に放出すれば影響は限定的でした。しかし、更に世界の人口が増え、皆の生活水準が高まると、もはや地球上のどこにも、私達のゴミを捨てるのに充分な「外部」はなくなって、とうとう「内部化」せざるを得なくなってしまいました。そして、このゴミとは、これ以上減量も改質もできない最終形態のゴミ、CO2。「内部化」とは、当事者(関係者)を広げて利害関係を再調整すること。これが、地球温暖化、そしてCOP21の要点です。

でも、ちょっと待てよ。人間が狩猟していた大昔から、山や川も大気も海も「外部」だと勝手に思い混んでいただけで、実はもとから「内部」だったんじゃないか。影響が小さすぎて、「内部」だと気付かなかっただけのことじゃないか。

「外部不経済」とは、まさしく経済学の概念ですが、そのベースとなっているのは西洋キリスト教的な思想です。キリスト教において、全知万能の神と人間とは明確に区別されるように、西洋では「自己」と「他者」、「内部」と「外部」、「部分」と「全体」を、常に分け隔てて万物を捉えてきました。一方、仏教においては、仏とは自然であり、時にはあなた自身でもあります。「自己」と「他者、「内部」と「外部」、「部分」と「全体」との境界はあいまいで、ときに同一ものとしても考えられてきました。

個人主義を前提とする現代社会では、「自分」と「他者」、「内部」と「外部」、を明確に分けるよう教えられてきたし、その結果、科学技術が格段に進んだことは疑いようのない事実ですが、それと同時に、両者の精緻で複雑な関連性を見落とし、失ってきたものも多いのではないでしょうか。万物は相互に影響しあいながら絶妙なバランスで成り立っています。にもかかわらず、どこまでが「内部」で、どこからが「外部」か、にこだわり続ける姿には、人間のあさましさを感じざるを得ません。

今週、テレビ番組で見た、沖縄の無人島に20年間一人で暮らす老人が発した言葉は、「僕はひとりで生きているのではない。人間は嫌いではないし、世界情勢に興味もある。」日々、ラジオのニュースは欠かさず、月に2度、西表島に買い出しに行っては、多くの友人たちと交流を深められていました。

一見、ひとり孤独に生きているような方ですら、想像力や想いを巡らせば、「外部」は「内部」となり、やがて一つとなります。COP21でも、そんな人類の叡智を信じたいと思います。